― 松ヶ崎漬がある、京の春の暮らし ―
京都の春は、音もなく色づいてまいります。
洛北・松ヶ崎。
いまは住宅が建ち並ぶこのあたり一帯が、
かつて一面の菜の花に覆われていたことを、
知る人はもう多くありません。
灯明油のために菜の花畑はありました。
春になると、畑は淡い黄色に染まり、
やわらかな風に花が揺れ、遠くからでも
松ヶ崎の里がすぐにわかったといいます。
菜種の間引き菜を摘み、塩と米ぬかで漬ける。
そうして生まれたのが、松ヶ崎漬のはじまりでした。
京都の暮らしの漬物であって
特別な派手さはありません。
けれど春の訪れを知らせる、暮らしの中の大切な味でした。
明治から昭和のはじめにかけて、
松ヶ崎漬は大八車に積まれて洛中へ運ばれました。
朝の道をきしませながら進む車の音を聞いて、
戸口に出てくる人もあったといいます。
「今年も来はったな」
そんなふうに迎えられながら、春の味は町に広がっていきました。
やがて灯明は電灯に変わり、畑は姿を消し、
松ヶ崎漬も次第に遠のいていきました。
いまでは「幻の京漬物」と呼ばれるほどの存在です。
当店では、幸いにも往時の製法を知る方とのご縁をいただき、
この松ヶ崎漬を再び漬けることができました。
使うのは、塩と米ぬかと唐辛子だけ。
昔と変わらぬ方法で、ゆっくりと乳酸発酵を待ちます。
噛むほどに広がる青い香りと、やわらかな酸味。
決して派手さはありませんが、春の京都の空気を、
そのまま閉じ込めたような味わいです。
静かな春のひとときに、お愉しみいただければ幸いです。
恐惶謹言 主人